開拓以前の深川地区

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大むかしの深川

深川では、大むかしの人々が使っていた石器・土器などが多数発掘されている。
この石器や土器の中で古いものは、1万年から1万2千年前のものであり、生きがい文化センターに保存されている。

環状列石(ストーンサークル)

ストーンサークルの写真
深川市向陽(こうよう)の稲見山(いなみやま)にあるストーンサークルは、縄文時代の墓と考えられている。この中からは、ヒスイの飾り玉・やじり・赤い漆塗の弓と土器の破片等が発見された。
これらの出土品は、本州に住んでいた人々と交換して手にいれたものであろうといわれている。このストーンサークルは、1956年(昭和31年)国の史跡に指定されている。
このほか、北海道内には、小樽・余市・斜里などにもストーンサークルがある。

アイヌの人たちの生活

アイヌの人たちの服装の写真
深川には、本州の人たちがくる前に、アイヌの人たちが、石狩川の岸辺を中心に住んでいた。
一つの集落(コタン)は5軒〜6軒くらいであった。
アイヌの人たちの家は、地面に柱を立て、木の皮で作った縄や、ブドウ・コクワの蔓(つる)などで横木を縛って屋根を組み、壁や屋根には、ササ・ヨシ・木の皮を使っていた。
家の中は、部屋が一つだけで、まん中にイロリを作り、回りの床には乾いた草などを敷きつめ、その上にカヤやヨシで編んだ簾(すだれ)、更に、その上にガマやスゲで編んだゴザを敷いていた。
食べ物は、そのころ沢山いた鹿・熊・兎などの肉、川の鮭・鱒、草の根・茎・葉、木や草の実であった。
着物や履物には、古くは獣や魚の皮を使っていた。また、「アツシ」と呼ばれる樹皮の繊維で織った布の衣服をきていた。
文字を持たなかったアイヌの人たちは、ユーカラ(叙事詩)やウエペケレ(民話)を、口づたえに伝承してきた。
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味である。

探検に来た人々

松浦武四郎の写真
1807年(文化4年)、近藤重蔵が石狩川を下りながら現深川地区に大きな平野があることを発見し江戸幕府に報告している。
1857年(安政4年)、北海道の名付け親といわれる松浦武四郎がアイヌの人たちを案内人にして、石狩川をさかのぼって調査に来た。
松浦武四郎の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」に深川のことが次のように記載されている。
「5月25日(旧暦)早朝イジヤン(現深川市広里)から舟で石狩川を上り始めた。右は山で、左は平地である。
シヘヌカルシ、ホンヌ、ホロナイ等を過ぎると、ナイタイベ(内大部)である。川の流れがだんだん早くなってきて舟を漕ぐのが大変である。
ヤソシハラ、オツカヤマナイを過ぎると、両側は険しい山で、川の中には所々に大きな岩があり、水は渦を巻きながら大きな音を立てて流れている。
ハラムイからは、綱で舟を引きながら400メートル程進んでシキウシバについた。この辺りをカムイコタンと呼んでいる。(神居古潭とは現在の旭川市と深川市の境界付近)

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