開拓のころ

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上川道路

服役者が道路を作っている様子の絵画
1869年(明治2年)、北海道に開拓使が置かれ、それまで「蝦夷地」と呼ばれていたものを「北海道」と改めた。
1886年(明治19年)、北海道開拓使は、北海道庁となった。
北海道庁は、北海道の開拓を進めるため上川(現旭川)の開発を急がなければならないとの方針で札幌から上川へ通じる道路を作ることとした。
当時、札幌から岩見沢までは道路があったが、それから北は原始林のままで、上川まで行くには丸木船で石狩川をさかのぼるしか方法がなかった。
北海道庁の命を受けた高畑利宜(としよし)は、石狩川をさかのぼり調査を行い、工事には、樺戸集治監の服役者を使った。
昔の上川道路の写真
服役者たちは鋸や斧を用いて原始林を切り開き、90日余りのうちに市来知(いちきしり=現三笠市)から上川まで幅1.8メートルで、長さ約90キロメートルの仮道路が開通した。
1887年(明治20年)から3年間で砂利を入れたり道路幅を5.5メートルに拡幅し、馬車の通行が可能となった。
この道路は上川道路と呼ばれ国道12号の始まりである。

音江法華駅逓

上川道路が開通してから上川方面にも開拓者がどんどん入るようになり人の行き来が増大した。旅人の泊まるところや、交通に必要な馬を貸すところを駅逓といい、駅逓は上川道路の所々に作られた。
1889年(明治22年)、音江法華(現深川市音江)にも駅逓が作られ、第2美英舎と名付けられた。
その後、駅逓を中心に運送業を営むものが多く現れた。当時は駄鞍(だぐら)追いという一人の馬丁が先頭の馬にまたがり、背中の両側に荷物を積んだ5〜10頭の駄馬を引き連れて荷物を運搬するというものであった。
上川への交通が多くなるにつれて、駅逓の近くには、商店、食堂、宿屋等が出来てきた。その中でも音江は最もにぎやかであった。
1892年(明治25年2月4日)には、深川村が誕生した。

深川本通りと渡船

割木を敷いた本通りの様子の写真
上川道路が出来た後、今の道道旭川深川線、道道深川雨竜線がつくられた。この道路は、深川本通りと呼ばれた。
雨竜から深川を通り神居古潭(かむいこたん)までの道路は、雨竜原野を開拓するために1891年(明治24年)つくられた。
この道路は、上川道路と同じように、樺戸監獄署の服役者で作られたが工事は大がかりなものでなく細い道であった。
はじめの頃の深川本通りは、雨が降ったり、石狩川が増水する度にぬかるみが出き、馬車が動けなくなるような道路であった。また、木の切株や、ササの切口が残っていたため人や馬が怪我をすることが珍しくなかった。
このため、割木を敷いたり砂利を入れて改良を図った。この道路は、石狩川の右岸に広がっている雨竜原野の開拓に大きな役割を果たした。
渡船の様子の写真
しかし、深川と音江の間にある石狩川には橋がなく、そこをわたる人々は渡船を使っていた。
1892年(明治25年)、奥芳松(おくよしまつ)が渡船をはじめて以来、メム地区から納内地区までの間に10カ所ばかりの渡船場が作られ、多くの開拓者や屯田兵が利用した。
渡船は、川の両岸にワイヤーを張りそれをたどりながら舟を動かすもので、風の強い日や、増水のときは大変危険であって、舟が転覆し多くの人命が失われたこともあった。
冬は、氷の上に丸太を置き、その上に板とムシロを敷き雪をのせて水をかけてこおらせ、氷橋を作り人や馬が通行したが冬の初めや、雪解けの頃は大変危険であった。
船橋の写真
1917年(大正6年)、現在の深川橋の近くに船橋が造られた。
船橋は、川の両岸にワイヤーを張り、木の舟を沢山ならべ、その上に厚板を敷き並べたものであったが、増水のときや冬期間は使えなかった。
その後、1931年(昭和6年)に旧深川橋が、1932年(昭和7年)には旧納内橋が完成した。

菊亭農場

菊亭農場事務所の写真
1889年(明治22年)、三条公爵、蜂須賀(はちすか)侯爵、菊亭(きくてい)侯爵たち6人の華族が雨竜原野の土地を政府から借り受け資金を出し合って華族組合雨竜農場を開くこととし、1890年(明治23年)から開拓を開始したがなかなか進まず、めいめいで農場をつくることとした。
菊亭侯爵は、100戸の農家を入れ、約1,600ヘクタール開拓しようと1893年(明治26年)深川で土地を借り、北海道の新十津川、本州の十津川まで農家を集めに行ったもののなかなか計画通りには集まらなかったが、同年、新十津川から大和団体が、1897年(明治30年)、石川県から加賀団体が入植し、ようやく望みが果たされた。
この深川の菊亭農場に開拓に入った人たちのことをメム100戸団体と呼んでいる。
家を建てている様子の写真
開拓に入った人たちはまず家を作らなければならなかった。
家といっても、立木を倒し、何本かの丸太を組み合わせて、草で屋根をふくという粗末なものであった。
家族は力を合わせて朝早くから暗くなるまで働いた。木を切り倒し、ササや草を焼き、その後を一鍬一鍬掘り起こしたが木やササの根が入り組んでいたため仕事がはかどらず大変な苦労であった。
開拓のころのメム地区は、見渡す限り、カヤ・ハギ・クマザサ・ヨシ等の雑草やアカダモ・ヤチダモの大木が多く繁っていた。また、熊の足跡がいたるところにあり、草で作った笛を吹いて用心していた。馬が熊に殺されることもあった。
こうして切り開いた土地に、エンバク・イナキビ・アワ・ソバなどを植えたがせっかく作った作物も、熊に荒されたり、イナゴやヨトウ虫に傷められたり、水害や冷害で良く実らないこともあった。
開拓者は、厳しい自然と苦しい生活に耐えながら家族が力を合わせて働いた。

開拓の様子

冬期間に木を切り倒し、雪解けを待って刈り取った雑草に火をつけて野焼きを行い、その後を鍬で掘り起こすという大変な苦労であった。木の少ない土地では、プラオを付けた馬で掘り起こす者もいた。
深川地区では収穫した作物の買い手がいなかったため、金に換えるため滝川まで運ぶ必要があった。

屯田兵

屯田兵と家族の写真
広い北海道を開拓するためには、多くの人手が必要であったが、人手を集めるのはなかなか困難であった。
北海道開拓使次官黒田清隆は、ロシアの屯田兵制度を取り入れることとした。
1875年(明治9年)、はじめて琴似村(現札幌市)に入植して以後、次々と屯田兵が入植してきた。
深川地区には、1895年(明治28年)、一已に200戸、納内に100戸、翌年も同数が入植した。
屯田兵は、家族とともに入植したが兵隊の訓練が主で、土地の開拓はほとんど家族の仕事であった。
一已や納内地区は、それまで大きな木が繁り、ササや草が背丈よりも高く伸び、昼間でも薄暗く、隣の家も見えない状態であった。
開墾は、朝早く起きて木を切り倒し、日が暮れると、倒した木や枯草を燃やした。日中は、燃やしたところを耕して畑にしてゆくというものであった。一鍬一鍬手でおこす作業であったが、木や草の根が固く大変な作業であった。
耕した畑には、ソバ・大根・バレイショ・豆・アワ・トウキビ等を植えていた。
1898年(明治31年)ころには、稲も作るようになり、また、リンゴの木を植えたり、カイコを育てるようにもなった。
このころの食べ物は、イモ・アワなどが主で、味噌や醤油はみんな自分で作っていた。
家は、天井が張ってなく冬などはとても寒く、吹雪いた夜には寝ている布団の上に雪が積もったほどであった。
また、熊が毎日のように家の傍までやって来た。蛇や狐も多くいた。
屯田兵が開拓を始めてからは、この辺りの土地は、どんどん畑に変わり見違えるようになった。
残されていた屯田兵屋は、平成5年、深川市生きがい文化センターに移設され修復して保存されている。
屯田兵とは、農業をしながら国を守る兵隊のことである。

石橋農場

大阪地方で実業家として活躍していた兵庫県の石橋末吉は、明治政府の方針に賛同し農場を開く計画を立てた。
1896年(明治29年)、多度志(たどし)で448ヘクタールの土地を政府から借り受け、石橋農場を開くこととし、各地から70戸ほどの農家を集め主にバレイショを植えた。
しかし、水害や冷害の年が多く収穫もわずかであった。その上、畑を鳥や熊、狐、狸などに荒され食糧不足となりせっかく開墾した土地を離れて他へ移るものもいた。
石橋末吉は、教育にも熱心で農場の子供たちのために学校をつくった。この学校は、当時石橋小学校と呼ばれた。
深川から幌加内までの間の道路を作る工事が行われていたが、1899年(明治32年)鷹泊駅逓が、翌年には、多度志駅逓ができた。
石橋農場のほか、宇摩団体や、幌成の児玉農場、鷹泊の宇野牧場などで、今の多度志が開かれて行った。

上川鉄道

道路をつける工事の様子の写真
現在の函館本線は、できた頃、「北海道官設鉄道上川線」と呼ばれていた。
1895年(明治28年)、鉄道を作るための測量が始められ、3年後の1898年(明治31年)開通した。
空知太(そらちぶと(砂川市と滝川市の境界付近))から旭川までの鉄道の開通と同時に、深川駅と納内駅が開業し、それまで寂しかった深川市街が急ににぎやかになった。特に、駅前には多くの家が建った。
鉄道が開通するまでは、滝川や旭川に行くには石狩川を渡って上川道路を通って行かなければならず大変時間がかかった。また、荷物を運搬するにも多額の費用がかかった。
鉄道が開通してからは、安い料金で、早く移動したり物を運搬できるようになり大変便利になった。
その後、1910年(明治43年)、深川〜留萌まで留萌線が、1941年(昭和16年)、深川〜名寄までの深名線が完成し、深川市は交通の中心となった。

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