米作りへの挑戦
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ああ、米が食べたい
北海道開拓のために入植した屯田兵たちは、北海道へ来る前には米を食べていた。入植してからはアワや麦を食べざるを得ず、米を食べたいという思いが強かった。
試しに植えてみるものもいたが、寒冷な気候のためうまく育たなかったり、水不足で田が乾いたり、水害で稲を流されるなど失敗の連続であった。
試しに植えてみるものもいたが、寒冷な気候のためうまく育たなかったり、水不足で田が乾いたり、水害で稲を流されるなど失敗の連続であった。
米作りへの挑戦
深川では、1892年(明治25年)、音江で稲を植えたところうまく育ち、また、稲を植えることを禁止されていた一已(いちやん)の屯田兵の一人が1896年(明治29年)、稲の栽培に成功した。
当時は屯田兵には稲の栽培を禁じられていたが1897年(明治30年)頃からは、米を自由に作れるようになった。
当時は屯田兵には稲の栽培を禁じられていたが1897年(明治30年)頃からは、米を自由に作れるようになった。
食べたいと思っていた米が深川で採れたことは大変な喜びであった。
稲を育てるためには、水が必要であり、はじめは、水の溜る土地で米作りをしていた。
そのうち、自分でため池を作ったり、川の水を引いたりして水田を作る人が多くなってきた。
稲を育てるためには、水が必要であり、はじめは、水の溜る土地で米作りをしていた。
そのうち、自分でため池を作ったり、川の水を引いたりして水田を作る人が多くなってきた。
用水路を作ろう
開拓のはじめの頃は、畑作が中心であったが、食べたいと思っていた米が採れるようになると、自分たちのくらしを良くするために米作りをしたいという人が多くなり、水がなくて畑しか作れない人たちは何とかして水を引いてきて水田を作りたいと考えた。
1901(明治34年)年、一已の屯田兵の代表と、深川の菊亭農場の代表が大きな用水路を作る計画を立てたが多額の資金を要するため諦めざるを得なかった。
しかし、「用水路が欲しい」という願いは高まるばかりであった。
1901(明治34年)年、一已の屯田兵の代表と、深川の菊亭農場の代表が大きな用水路を作る計画を立てたが多額の資金を要するため諦めざるを得なかった。
しかし、「用水路が欲しい」という願いは高まるばかりであった。
用水路の工事始まる
1909年(明治42年)、石狩川の水を引くための土功組合をつくり用水路を作ることとなった。
1912年(大正元年)、用水路の工事が始められ4年後の1916年(大正5年)完成した。
この工事は、現在のように進んだ技術や機械を持たない80年も前のことであったため大変な苦労であった。
鍬やスコップで土を掘り、掘った土は、モッコで運んだりとすべて人力で行わなければならなかった。
大きな切株をやっと掘り起こすと、そこに水が涌き出て溜ってしまうことや、工事の途中で水害にあったり、掘ったところに水が流れず失敗したことも度々であった。
1912年(大正元年)、用水路の工事が始められ4年後の1916年(大正5年)完成した。
この工事は、現在のように進んだ技術や機械を持たない80年も前のことであったため大変な苦労であった。
鍬やスコップで土を掘り、掘った土は、モッコで運んだりとすべて人力で行わなければならなかった。
大きな切株をやっと掘り起こすと、そこに水が涌き出て溜ってしまうことや、工事の途中で水害にあったり、掘ったところに水が流れず失敗したことも度々であった。
納内地区や一已地区では、神居古潭の上流から用水路を作ることとしたが、岩をくり抜き石狩川の下にトンネルを掘るという大工事であった。
こうして、各地区に用水路が出来上がり畑はだんだん水田に変わっていった。
秋になると、稲穂が一面に広がり素晴らしい眺めとなった。
しかし、用水路工事は、多額の費用がかかり大きな負担となった。
今日、深川市が「道内有数の稲作地域」として、また、「良質良食味米」の生産地として高い評価を受けているのは、こうした先人の苦労と努力によるものである。
こうして、各地区に用水路が出来上がり畑はだんだん水田に変わっていった。
秋になると、稲穂が一面に広がり素晴らしい眺めとなった。
しかし、用水路工事は、多額の費用がかかり大きな負担となった。
今日、深川市が「道内有数の稲作地域」として、また、「良質良食味米」の生産地として高い評価を受けているのは、こうした先人の苦労と努力によるものである。
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